ぷろふぃーる
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江戸っ娘16判定
お江戸ルほーりーが自信を持って案内する、江戸っ娘しばりの江戸めぐりスポット! 
おすすめ名所
八百屋お七
◆ 鈴ヶ森刑場遺跡 江戸名所図会 鈴ヶ森刑場遺跡
鈴の森(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(2巻4冊38丁)」より)
鈴ヶ森刑場遺跡
  慶安4年(1651)に開設された刑場跡。小塚原とともに江戸時代の二大刑場で、お七も市中引き回しのうえ、この鈴ヶ森刑場で火刑に処せられました。
  左下の『江戸名所図会』の奥に品川宿が描かれているように、東海道から江戸に入る玄関口に刑場は位置しており、東海道を行き交う人々への見せしめの意図があったことがわかります。
  遺跡は大経寺(もとは刑場の傍らにつくられた堂宇。無縁となった刑死者の霊を弔っている)境内にあり、ほかにも火炙(火刑)台、磔台、首洗いの井戸などが現存しています。
  近年、見学者のマナーの低下が問題になっているそうなので、訪れた際は、合掌・礼拝を忘れず、静かに見学しましょう。
アクセス情報
東京都品川区南大井2-5-6 [地図
京浜急行電鉄「大森海岸」駅または「立会川」駅より徒歩約10分
圓乗寺
  大火の際に、罹災したお七が一家で避難し、吉三郎と恋に落ちたとされる場所。現在お七の墓があります。
  お墓といっても、実際に遺骨が入っているわけではありません(刑死した彼女の遺体は鈴ヶ森に討ち捨てになっているので、墓を建てることもできない)。寺の住職が供養のために建てたもの、歌舞伎役者・岩井半四郎が寛政年間にお七を演じて好評だったために建てたもの、地元の有志の方たちで建てたものの合計三基があります。
  墓前にはメッセージノートがあり、「日本舞踊でお七を演じます」といった書き込みが見られます。いつもお供え物や線香が絶えません。
アクセス情報
東京都文京区白山1-34-6 [地図
都営地下鉄三田線「白山」駅より徒歩3分

笠森お仙
◆ 三つの笠森稲荷 江戸名所図会 三つの笠森稲荷
谷中感応寺 其一(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(5巻14冊42丁)」より)
三つの笠森稲荷
  江戸時代のガイドブック『江戸名所図会』に見られる、感応寺福泉にあった笠森稲荷は、慶応4年(1868)の官軍と彰義隊との戦いの際に焼失してしまい、現存していません。この笠森稲荷のご本尊は、明治3年に寛永寺の支院である養寿院に遷座になりました。
  またもともと笠森稲荷のあった場所には明治になってから、功徳林寺(くどくりんじ)というお寺が建立され、後に笠森稲荷も祀られるようになりました。そして、近くの大円寺にも笠森稲荷があります。これはお仙にはまったく関係のない系統の笠森稲荷なのですが、"谷中で笠森"ときたら、お仙でしょ!ということで、大正時代になってから、作家永井荷風がこんな碑文を書いています。

  女ならでは夜の明けぬ、日本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。
  笠森かぎや阿仙、春信が錦絵に影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。
                                                                                                大正八年六月 鰹のうまい頃

  狭い地域に三つの笠森稲荷!! お仙人気、恐るべしっ!
アクセス情報
養寿院
東京都台東区上野桜木1-15-3 [地図
JR山手線「鴬谷」駅より徒歩5分
功徳林寺
東京都台東区谷中7-6-9 [地図
JR山手線「日暮里」駅より徒歩5分
大円寺
東京都台東区谷中3-1-2 [地図
東京メトロ千代田線「千駄木」駅より徒歩2分、JR山手線「日暮里」駅より徒歩8分
正見寺
  もともと四谷にあったものが、大正2年に移転。嫁ぎ先の倉地家の墓所に夫とともに眠っています。代々徳川将軍家の御庭番として仕えた倉地家の墓所だけあって、いまもきちんと整備されており、墓碑にも13代目によって倉地家の由緒が非常にわかりやすく説明されています。ちなみにお仙の戒名は"深教院妙心大姉"。一介の茶屋娘からトップアイドルに上り詰め、最後は旗本の妻になったお仙。……リア充だなぁ。
アクセス情報
東京都中野区上高田1-1-10 [地図
東京メトロ東西線「落合」駅より徒歩5分

山本屋おとよ
◆ 長命寺桜もち「山本や」 江戸名所図会 長命寺桜もち「山本や」
隅田川東岸 牛御前宮 長命寺(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(7巻19冊82、83丁)」より)
長命寺桜もち「山本や」
  おとよちゃんの働いていた長命寺桜もち「山本や」は、いまも隅田川のほとりで営業しています。店内で食べることができるので、お江戸散策の休憩スポットに最適。東京スカイツリーからも近いです。
  ちなみに桜餅の葉を“食べる”か“残す”かは迷うところですが、こちらのお店のおススメは“残す”だそうです。葉はあくまでお餅の乾燥防止と香りづけのためなんだそうですよ。
※くわしくは「ほーりー江戸を斬る・向島編」へどうぞ!
アクセス情報
東京都墨田区向島5-1-14 [地図
東京メトロ銀座線、都営地下鉄浅草線「浅草」駅より徒歩約20分、東京メトロ半蔵門線「曳舟」駅より約10分

難波屋おきた
◆ 浅草寺 江戸名所図会 浅草寺
金竜山浅草寺 其三(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(6巻16冊4丁)」より)
浅草寺
  当時も現在も観光名所として名高い浅草寺。おきたはこの浅草寺境内の二天門脇の水茶屋で働いていました(水茶屋というのは、お茶の葉そのものを売る葉茶屋に対して、液体のお茶を出すところ。ようは喫茶店ですね!)。現在アミューズミュージアムのあるあたりでしょうか。その屋上からは浅草寺の五重塔とスカイツリーが両方見えて、かなり得した気分になりますよ。ちなみに、アミューズミュージアムではほーりーもUKIYOEナイトの講師、やってます!
※くわしくは「ほーりー江戸を斬る・浅草編」へどうぞ!
アクセス情報
東京都台東区浅草2-3-1 [地図
東武伊勢崎線、東京メトロ銀座線、つくばエクスプレス「浅草」駅より徒歩5分、都営地下鉄浅草線「浅草」駅より徒歩7分

春日局
◆ 麟祥院 江戸名所図会 麟祥院
麟祥院(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(5巻14冊16丁)」より)
麟祥院(りんしょういん)
  寛永元年(1624)に春日局が建立した寺院で、境内に春日の墓地があります。当初、報恩山天沢寺でしたが、春日の法号である麟祥院をとって名前を改めました。
  寛永20年(1643)、病に倒れた春日は「薬断ち」をしました。これは寛永6年(1629)に家光が疱瘡(ほうそう)に罹り、重篤な状態になったときに「自分はこの先一生、薬も鍼灸も用いないから、家光の命を助けてほしい」と神仏(この場合は東照大権現・家康も含む)に願掛けをしたからだったといいます。家光は何度も病床を見舞い、日増しに衰えていく春日を見て、薬を飲むよう懇願しました。自分が原因で春日が薬断ちをしていることに気が付いていたのかもしれません。春日は家光の心中を察し、薬を飲み下すようなそぶりを見せて、実は飲み込まず胸元に吐き出していたそうです。
  墓石は穴が貫通した珍しい形をしていて、春日が「死して後も天下の政道を見守れるように」と遺言したことによって造られたものだそうです。
  最期まで家光の乳母としての信念を貫いた、春日の墓前に、合掌。
アクセス情報
東京都文京区湯島4-1-8 [地図
東京メトロ丸ノ内線・都営地下鉄大江戸線「本郷三丁目」駅、東京メトロ千代田線「湯島」駅より徒歩7分

天璋院
◆ 寛永寺 江戸名所図会 寛永寺
東叡山寛永寺 其四(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(5巻14冊27丁)」より)
寛永寺
  天璋院は、寛永寺の徳川将軍家墓、夫・家定の隣で眠っています。二人の結婚生活は2年に満たない短いものでしたが、夫婦としての絆は深かったようです。天璋院は維新後も、実家島津家からの援助を断り、徳川家の人間として生き、亡くなりました。
  宝塔の側には生前好きだった枇杷(びわ)の木が植えられています。墓地の一般公開はされていませんが、寛永寺境内及び上野恩賜公園は、徳川将軍家の菩提寺だっただけあって貴重な文化財が多く、見どころ盛りだくさんです。
※くわしくは「ほーりー江戸を斬る・上野編」へどうぞ!
アクセス情報
東京都台東区上野桜木1-14-11 [地図
JR山手線「鶯谷」駅南口より徒歩約3分

絵島
◆ 増上寺 江戸名所図会 増上寺
三縁山増上寺 其二(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(1巻3冊91丁)」より)
増上寺
  浄土宗の七大本山の一角で、徳川将軍家の菩提寺の一つです。
  かつては日光東照宮に比肩しうる威容を誇りました。現在も地下鉄の駅名に残る「大門」が増上寺の総門があった場所、「御成門」が将軍御成りの際に使われた門、東京タワー、芝公園、東京プリンスホテルがある場所も当時は増上寺の広大な墓域の一部でした。6代将軍・家宣もこの場所に葬られ、側室であった月光院の代参で絵島が参詣し、その帰りに山村座に立ち寄ったことが絵島生島事件の発端となったことはぷろふぃーるで前述した通り。
  境内にはいまでも徳川将軍家墓所がありますが、かつての壮麗な御霊屋の遺構(太平洋戦争前は国宝だった)は、戦災でほぼ壊滅し、墓地改装によって宝塔が一か所にまとめられ、その規模は大幅に縮小されています。
  現在の徳川将軍家墓所の門が、家宣の宝塔前中門でした。また、日比谷通り沿いの東京プリンスホテル前には有章院(7代将軍・家継。家宣と月光院の息子)霊廟の二天門が現存しますが、重要文化財にもかかわらず、朽ちるに任せいまにも倒れそうです。この調子だと、そう遠くない将来解体してしまうのでは……見られるうちに見ておくことをおススメします。
アクセス情報
東京都港区芝公園4-7-35 [地図
JR線・東京モノレール「浜松町」駅より徒歩10分、都営地下鉄三田線「御成門」駅および「芝公園」駅より徒歩3分

和宮
◆ 増上寺 江戸名所図会 増上寺
三縁山増上寺 其二(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(1巻3冊91丁)」より)
増上寺
  浄土宗の七大本山の一つ。江戸時代の初め、徳川家康が熱心に帰依したことから、徳川将軍家の菩提寺となりました。2代秀忠公、6代家宣公、7代家継公、9代家重公、12代家慶公、14代家茂公の6人の将軍の墓所があり、各公の正室と側室の墓ももうけられています。和宮の場合、実家が天皇家であることから、神式での葬儀も検討されましたが、「夫、家茂のそばに葬ってほしい」というのが生前からのたっての希望であったため、やはりこの地に埋葬されました。
  増上寺は昭和33年~35年にかけて、墓地改葬のための発掘調査が行なわれ、和宮の棺も開封されました。このときの唯一の副葬品が、遺体の両前腕の間にあった一枚のガラス板でした。研究員が電灯の光にすかして見たところ、長袴の直垂、縦烏帽子をつけた若い青年の姿が見えました。これはおそらく、和宮の夫・徳川家茂の写真であったろうといわれています。なんという夫婦愛。泣かせるエピソードじゃありませんか!!
  ちなみにこの写真、残っていれば唯一の徳川家茂の写真だったのですが、保管状況が悪く、翌日研究員が見てみると、表面が酸化して、青年の影は跡形もなく消えてしまっていたそうです。……私のもっちーが(;O;) ばかーっ!
アクセス情報
東京都港区芝公園4-7-35 [地図
JR線・東京モノレール「浜松町」駅より徒歩10分、都営地下鉄三田線「御成門」駅および「芝公園」駅より徒歩3分

出雲阿国 南座
  全国各地を興行で回っていた阿国ゆかりの地を江戸で探すのは、謎が多くなかなか難しい。そこで今回は、京都は南座を取り上げたいと思います(^O^)/
  阿国も興行をした四条河原にほど近い場所に、元和年間に開場した南座は幕府によって京都で興行が許された7つの櫓の一つ。劇場としては最古の歴史を持っています。特に年末の顔見世興行のとき、"まねき"という役者の紋や名前を書いた看板が正面に飾られる"まねき上げ"の行事は、京都の師走の風物詩になっています。
  ここに阿国歌舞伎発祥の地碑があり、出雲阿国の事績を知らせています。江戸時代の始まりとともに歌舞伎興行がいまなお行なわれ続ける、南座は歌舞伎の聖地ともいえる場所ではないでしょうか。
  ちなみに、出雲大社の側に出雲阿国のお墓といわれているところがあります。ふだん訪れる人は少なそうでしたが、墓地の周りには、阿国を主人公にした演劇公演の記念塔がいくつかあり、いまでも演劇関係者の信仰を集めているようです。
アクセス情報
京都市東山区四条大橋東詰 [地図
京阪電鉄「祇園四条」駅より徒歩すぐ、阪急電車「四条河原町」駅より徒歩3分

高尾
◆ 吉原 江戸名所図会 吉原
新吉原町(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(6巻17冊96丁)」より)
吉原
  江戸時代、浅草田圃(たんぼ)といわれた、浅草寺の北西方向にあった幕府公認の遊廓街。元の吉原は現在の人形町にあり、そこから移転した場所のため、"新吉原町"※と呼んで区別することがあります。周囲には「おはぐろどぶ」と俗称される幅五間の堀がめぐらされ、出入口は北東の日本堤方面に設けられた大門口が一か所。これは遊女たちの脱走や駆け落ちを防止するためで、大事な商売道具だった彼女たちの自由な外出は許されていませんでした。大門から日本堤までは五十間道とよばれる蛇行した道があり、名物の見返り柳(帰宅する遊客が後ろ髪をひかれて思わず振り返ることがその名の由来)があります。実はこの道、いま行っても当時のまま蛇行していて、六代目の見返り柳が植わっているのです。
  現在は日本有数のソープ街なので、女一人で古地図片手にうろついていると、黒服さんにはかなり変な目で見られますが、かまわずに散策し、すぐ近くの天ぷら屋「土手の伊勢屋」で天丼を食べるというのが私の吉原定番コースになっています。土手の伊勢屋は創業が明治23年という老舗。ごま油、そして江戸前の濃いめのたれが好きな方には超おススメですよ。

※幕府により、明暦3年(1657)の大火以後浅草山谷付近(台東区千束四丁目)に移転。
アクセス情報
東京都台東区千束4~3丁目の一部 地図は見返り柳があるところ。 [地図
見返り柳までは東京メトロ日比谷線「三ノ輪」駅より徒歩10分
土手の伊勢屋
東京都台東区日本堤1-9-2 [地図

瀬川菊之丞
◆ 弁慶像 江戸名所図会 弁慶像
堺町・葺屋町 戯場(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(1巻2冊48丁)」より)
弁慶像
  地下鉄の人形町駅を出て甘酒横丁を抜け、浜町公園に向かう途中の緑道に弁慶像があります。江戸時代、このあたりに「江戸三座」といわれる芝居小屋のうち中村座と市村座の二座があったため、歌舞伎の十八番「勧進帳」の弁慶像が建てられました。そして二代目・瀬川菊之丞ももちろん、この場所で活躍しました。実はここでは歌舞伎だけでなく人形浄瑠璃も上演されていて、その職人が多数集住していたため"人形町"と呼ばれるようになったんだそう。
  このあたりの散策の楽しみといったら、なんといっても「玉ひで」でのお食事。創業宝暦10年(1760)、将軍の御鷹狩の御用を請け負い、しゃも鍋の専門店として開業したのが最初だそうです。ということは、時代的に現役バリバリの瀬川菊之丞も食べたかもしれませんね。
  明治時代に玉子丼を初めて作ったことでも有名なお店で、ランチタイムには全国各地からお客さんが押し寄せ、大行列ができます。行列が苦手の堀口も、ここだけは並んで食べてしまう超絶おいしい玉子丼、ぜひ一度お試しください!
アクセス情報
弁慶像
東京都中央区日本橋人形町2‐37 [地図
都営新宿線「浜町」駅より徒歩5分
玉ひで
東京都中央区日本橋人形町1-17-10 [地図

勝山
◆ 元吉原 江戸名所図会 元吉原
大門通(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(1巻2冊51丁)」より)
元吉原
  現在、地下鉄「人形町」駅のある人形町交差点の東側一帯が、元吉原があったあたり。それまで各地に散在していた遊女屋を一か所に集め、江戸唯一の官許の遊郭街として、元和4年(1617)、この地に開業しました。当時はこのあたりは海岸線が近く、一面に葦(よし)が生い茂っていたため"葦の原"と呼ばれており、後に"吉原"という字があてられるようになったのだそう。
  現在も駅の側には大門通りという通りの名前がありますが、これはかつてここに吉原大門があった名残りです。『江戸名所図会』には、吉原が浅草に移転した後の元吉原の様子が挿絵入りで紹介されていて、"いまは銅物屋(かなものや)・馬具師多く住めり"とあります。江戸いちばんの商業地、日本橋に近いだけあって、吉原が移転してからも活気があったようですね。
アクセス情報
東京都中央区日本橋人形町3丁目 [地図
東京メトロ日比谷線、都営地下鉄浅草線「人形町」駅すぐ

瑤泉院
◆ 泉岳寺 江戸名所図会 泉岳寺
泉岳寺(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(1巻3冊138丁)」より)
泉岳寺
  泉岳寺は赤穂藩主浅野家の菩提寺だったため、内匠頭、瑤泉院夫婦のお墓、そして討ち入りを遂げ、切腹をして果てた赤穂義士47士の墓が立ち並んでいます(そのほかに、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対により討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓もあり、墓碑は48)。
  墓地の門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・東京都中央区の聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものですし、その脇には首洗いの井戸(討ち入り成功の後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗って主君の墓前に差し出した)、血染めの梅・血染めの石(内匠頭が切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石)、瑶池梅(義士の墓守りをした堀部妙海法尼が瑤泉院からもらった鉢植えの梅を移植したもの)などがあり、忠臣蔵ファンはもちろん、歴史ファンにとってはたまらない(!)かなりテンションが上がるスポットです。
  墓地などに訪れる人が多いことを「線香が絶えない」と表現しますが、泉岳寺の場合もその通り、本当に線香が絶えません。いや、年末の忠臣蔵シーズンが近づくと、線香の煙で前が見えないくらいです。というわけで、シーズンを外すこともおススメ。境内も静かにゆっくりと拝観できますよ。
  "泉岳寺イコール忠臣蔵"ということで、墓所関連の遺構だけ見て帰ってしまう方がいらっしゃるのですが、実は境内に入るときにくぐる山門が素晴らしいのです。天保3年(1832)に再建されたものが現存していて、2階部分には十六羅漢が安置され、1階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。こちらもぜひチェックしてみてください。
  徳川将軍家にも縁の深い、由緒ただしいお寺ですので、御本尊へのお参りも忘れずに。
アクセス情報
東京都港区高輪2-11-1 [地図
都営地下鉄浅草線「泉岳寺」駅より徒歩1分

田宮岩 於岩稲荷田宮神社
  宮家跡地に建ち、お岩さんをお祀りしている神社。一般公開はしていませんが、邸内には田宮家の古井戸などもあるそう(ちなみにこの神社は明治期に火災焼失して、中央区新川に移転しましたが、戦災でそちらも焼失。戦後になって、四谷、新川ともに復活したため、現在二つのお岩稲荷神社がある)。四谷の於岩稲荷のはす向かいには、陽運寺というこちらもお岩さんをお祀りしているお寺があり、歌舞伎などで『四谷怪談』を演じる役者は必ずこの両方にお参りをするというしきたりがあります。
  よく『四谷怪談』を上演すると怪我をする俳優が続出するため、「お岩さんの祟りじゃないか」といわれますが、実際には、怪談物を上演するときは極端に照明を暗くしたり、演出のために仕掛けが立て込むため、怪我をする確率が高くなる、というところのようです。
アクセス情報
東京都新宿区左門町17 [地図
東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目」駅より徒歩6分

いの
◆ 愛宕神社 江戸名所図会 愛宕神社
愛宕社 其二 愛宕社総門(ジャパンナレッジ「江戸名所図会(1巻3冊105丁)」より)
愛宕神社
  慶長8年(1603)、徳川家康が幕府開幕の年に勧請(かんじょう)した神社。東京23区の自然山としては最高の標高26メートルの愛宕山の山上にあり、江戸時代には景勝地として大変人気のある観光スポットでした。その賑わいは、数多くの浮世絵にも描かれています。現在では周辺に山よりも高いビルが林立しているため、その景色を楽しむことはできませんが、緑が多く気持ちいいので、地元の人たちの憩いの場になっています。
  神社への道は男坂、女坂の二つ。とくに男坂は反りたつような石段が特徴です。寛永11年(1634)曲垣平九郎(まがきへいくろう)が馬に乗って86段の急な石段を駆け上がり、紅白の梅の枝を折って3代将軍徳川家光に献上したことから、"出世の石段"と呼ばれています。
  桜田門外の変の実行当日、襲撃メンバーが集合したのが、この愛宕神社でした。出世の石段を登って気合いを入れたのでしょうか? 境内には"桜田烈士愛宕山遺跡碑"という大きな顕彰碑があります。
アクセス情報
東京都港区愛宕1-5-3 [地図
東京メトロ日比谷線「神谷町」駅より徒歩5分

千葉さな 千葉灸治院跡
  さなが晩年を送ったのは意外にも足立区の千住でした。千葉灸治院の跡地にはNPO法人千住文化普及会によって小さな案内板が出ています。国道4号線沿いにある、あまりにさりげない看板なので、地元の人でも知らなかったりしますが、時折歴史ファンのグループが徒党を組んで見物に訪れる様子を見かけます。
  北千住駅までの間には千住宿の遺構が多数残っているので、からめて散策するのがおススメです。
アクセス情報
東京都足立区千住仲町1-1 [地図
京成本線「千住大橋」駅より徒歩約7分(国道4号線沿い、宮元町交差点上り線側)
清運寺
  千葉さなは亡くなると、谷中の墓地に土葬されましたが、昭和25年に無縁仏として、八柱霊園に合祀されてしまいました。現存するのは、甲府の清運寺の分骨墓(もしくは供養墓)です。
  さなは生前、山梨の自由民権運動家・小田切謙明と親交があり、小田切氏の妻・豊次によって、さなの死後、小田切家の菩提寺である清運寺に墓碑が建てられたとのこと。墓の裏に"坂本龍馬室"と刻まれているのが、泣かせるではありませんか。
  きっと生前のさなは、豊次さんはじめ、周囲の人々にいかに自分が龍馬を愛していたかを語り続けていたにちがいありません。たとえ報われなくとも、一途な愛に人生を捧げた千葉さなに、合掌。
アクセス情報
山梨県甲府市朝日5-2-11 [地図
JR中央線「甲府」駅より徒歩13分

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