御家人・田宮又左衛門の娘として、四谷左門町に生まれる。
伊右衛門を婿養子に迎え、人もうらやむおしどり夫婦として暮らしていたが、三十俵三人扶という薄給であったから、お岩は密かに商家に奉公に出て家計を助けた。お岩は日ごろから田宮家の庭にある屋敷社を熱心に信仰していたおかげか、やがて夫婦の蓄えも増え、田宮家は栄えた。36歳でお岩が亡くなると、田宮家の繁栄にあやかろうと、生前、お岩が信仰していた屋敷社に近隣の人々が参詣に訪れるようになった。田宮家でも屋敷社の傍らに小さな祠(ほこら)を作り、「お岩稲荷」と名付けて信仰するようになり、参詣の要望を断り切れなくなると、これを受け入れるようになった。
享保2年(1717)にはお岩稲荷を「於岩稲荷社」(現在は於岩稲荷田宮神社という)として勧進。以来、当社によってお岩は神様として祀られている。
余談だが、お岩というと、怪談話である。なぜ、良妻の鏡であった彼女が醜女の怨霊の代名詞のようにいわれるようになったのか。いろいろないきさつが考えられるが、一つ重要になるのが「於岩稲荷社」成立と前後した時期に書かれたといわれる実録小説『四谷雑談集』の存在である。このなかに、貞享・元禄のころの話として、四谷左門町に住む御先鉄砲組同心・田宮伊右衛門を中心とした家々で、18人が怪死するという事件があった。この事件の中心人物として、お岩の名前があがっているのだ。
これによると、同心・田宮又左衛門の娘岩は性格が悪いうえに疱瘡(ほうそう)を患って大変醜い容姿であった。摂州浪人の伊右衛門は御先手組同心の婿の座を目当てにお岩と結婚し、婿養子に入るが、すぐに浮気をし、田宮家からお岩を追い出して離縁してしまう。これを知ったお岩は狂乱し、狂走して行方不明になった。その後、田宮家近隣で怪事件が多発するようになったのだ。
ことの真相は定かではないが、当時の古地図を見ると左門町には"鬼横丁"という地名が残っており、この地で何らかの事件が起こり、それが地元の有名人であるお岩や、田宮家の言い伝えと混ざって、いわゆる"四谷怪談"が形成されたのではないか。
しかし、真実は闇のなかである。