芸州・浅野家の支藩である、三次(みよし)藩浅野家の初代藩主・長治の側室の娘として生まれる。俗名は阿久利(あぐり)。
7歳ごろまで三次で生活していたが、赤穂藩浅野家三代藩主・長矩(ながのり)との縁組が決まり、国家老・大石内蔵助(くらのすけ)良雄に連れられて、輿入れ準備のために江戸屋敷へ旅立った。
14歳のころ、浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩と結婚。夫・内匠頭の性格は、利発だが短気なところがあり、よくいえば真面目、悪くいえば剛情なところもあったと伝えられている。夫婦仲はよかったが、子宝に恵まれず、一説には内匠頭が女色にふけるようになっていったという。(ただ、側室を置くことがなかったことを考えるとこの説は信憑性が低いようにも感じるのですが、どうでしょうね?)
元禄14年(1701)3月14日、夫・内匠頭が江戸城内にて刃傷事件(高家筆頭の吉良上野介義央に、江戸城松之廊下で切りつけ失敗)におよび即日切腹。阿久利も即日落飾(らくしょく:高貴な人が髪をそり落として仏門に入ること)。寿晶院、後に瑤泉院と名乗る。
瑤泉院は急転直下の事態にも狼狽することなく、浅野家の再興と仇討のためにまい進する。輿入れの際の化粧料(持参金)を大石内蔵助が返還にやってきた際もそれを受け取らず、この瑤泉院の化粧料が仇討のための貴重な軍資金となった。
翌年の12月15日未明、仇討が成功。その後の瑤泉院は、夫や赤穂浪士たちの菩提を弔いながら静かに余生を過ごし、内匠頭13回忌の年に40代で永眠した。