武州八王子の良家(豪農層とも、武家ともいわれる)の娘として生まれる。
13、14歳のころ、父親と大喧嘩して家出。正保3年(1646)から神田の紀伊国屋風呂に湯女として勤めるようになる。風呂屋とは女性従業員が背中を流すサービスのある入浴施設のことで、密かに売春も行なわれていた。当時は吉原等の売春目的の施設の夜間営業が禁止されていたが、表向き、風呂屋は入浴施設であるため夜間営業が黙認されており、大変な人気があった。なかでも一番の人気店が勝山の入った紀伊国屋風呂。堀丹後守の屋敷の前にあったため丹前風呂とも呼ばれていた。
勝山は18、19歳になると身長もスラリと伸び、美貌にも磨きがかかっていった。また、彼女のファッションも話題で、派手な縞柄の広袖の長着を着て外八文字(足を内側から外側に大きく開いて歩く。奴風の勇ましい印象)で町を闊歩する姿が注目を集め、伊達男たちがこぞって彼女の着こなしをマネするようになった。これが丹前(どてらともいう)の始まりである。また、彼女の結い始めた勝山髷は品があって美しいとこちらもマネする女性が続出。常識にとらわれない新たなファッションの価値観を開拓していき、男女両方に支持された。
人気絶頂のとき、けんか騒ぎが起き、紀伊国屋風呂が廃業。勝山は失業するもすぐに吉原に引き抜かれ、承応2年(1653)、吉原デビュー。花魁道中は、湯女時代に話題となった外八文字で勇壮に歩き、人々に熱狂的に支持された。以降、この花魁道中は伝説となり、吉原の花魁は外八文字で道中するようになった。
歌舞音曲に優れ、和歌や書も嗜んだ勝山は、吉原の最高位である、太夫にまで上り詰めるが、デビューから3年目の明暦2年(1656)、突如姿を消す。彼女の真意は不明だが、一説によると母の訃報に触れ、供養のための巡礼の旅に出たのだという。