王子の豪農・清水半六の子として生まれる。幼名権次郎(徳次とも)。
5歳のとき、初代・瀬川菊之丞に見込まれて養子に入ったが、9歳で初代が亡くなり、翌寛延3(1750)年、10歳のときに追善興行で初舞台。二代目・瀬川吉次を名乗る。
16歳で『百千鳥娘道成寺(ももちどりむすめどうじょうじ)』を演じて二代目・瀬川菊之丞を襲名、翌年には若女形筆頭の評判を得る。現在に残る名作『鷺娘』を初演したのも彼だ(ただし、当時の振り付けは現在には伝わっていない)。
菊之丞は、美貌のうえに愛嬌があって、声もよく、時代物、世話物、所作事、すべての演目に対応できる芸の幅を持っていたため、男女問わず人気が高かった。とくに若い女性からの支持率が非常に高く、彼が舞台上で披露するファッションは模倣の対象になっていった。
たとえば26歳のころ、八百屋お七の狂言で、下女お杉役を演じたとき、渋い色の茶染めの衣装を着たところ、これが可愛いすぎると評判になり、菊之丞の俳名・路考(ろこう)から、「路考茶」として女性の間で大流行した。ほかにも、帯の結び方は「路考結び」、髪型は「路考髷」、簪(かんざし)は「路考櫛」と呼ばれ、皆こぞって真似をした。当時の狂歌には、
いっそもう 路考が出ると いっそもう
金玉の あるのが路考 不足なり
と詠まれている。
安永2(1773)年、若く美しい姿のまま33歳で逝去。