下野の国塩釜村の百姓・長助の娘で名をみよという。
5、6歳のころ、立て続けに両親が亡くなり、同村の親戚・弥七が引き取って養っていたが、たまたま温泉に逗留していた水戸出身と名乗る者が、みよを一目見て、「養女に欲しい!」と頼み込んだ。弥七はこれを了承したが、じつはこの者によって、みよはその後吉原に売られたのであった。
塩釜温泉の水に磨かれてきたためか、みよは幼くして非常に美しく(このころの花魁は基本、化粧をしなかったため、素顔の美しさを最も重視された)、吉原一の大店・三浦屋四郎左衛門が高値で買い取り、将来の太夫候補として英才教育が施されてゆく。このころの吉原の主な客層は大名や武家層であったため、接客をする太夫にもハイレベルな教養が求められたのである。16、17歳になると四郎左衛門の見込み通りの最高級の太夫に仕立て上がり、三浦屋の大名跡・高尾の二代目を襲名。身の回りの品には紅葉の名所高尾山にちなんで、紅葉の紋が付けられた。
仙台藩の若き藩主・伊達綱宗は高尾に入れ上げた挙句、身を持ち崩して幕府に隠居を言いつけられている。綱宗は酒乱の癖があり、あるとき、いくらお金を積んでも自分になびかない高尾に斬りつけ、その傷がもとで高尾は亡くなった。享年19歳。(高尾は綱宗に隅田川の船の上で吊るし切りにされた、という説もある。この事件のため、後世の人々は二代目・高尾のことを俗に"仙台高尾"と呼ぶようになる)
故郷塩釜の親戚は、三浦屋から形見の品が届いたときに初めて、みよが吉原の三浦屋で出世して高尾になっていたことを知ったという。