出生には諸説ある。出雲の国杵築(きづき)に住む出雲大社に仕える鍛冶職人・中村(小村とも)三右衛門の娘で、大社修繕のため諸国をまわって芸を見せながら勧進をしたという説があり、出雲大社の近くにはお墓もある。しかし、出雲出身というのは建前で、本当は大和地方の"あるき巫女(巫女と称して売春をしながら諸国を歩く旅芸人)"であったとする説も有力だ。いずれにせよ、幼少期から芸を生業にしていたことは確かである。
長い下積み生活を経て、30歳前後となった慶長8年(1603)徳川幕府の開幕に沸く4月の京都(北野とも、四条河原とも)で初めて"歌舞伎踊り"の興行をし、これが空前のヒット。以後、出雲阿国の名は急速に広まった。人気に便乗しようと、「佐渡島阿国」「八幡阿国」「対馬守阿国」などたくさんのニセ阿国が現れたという。
阿国のパフォーマンスがどんなものだったかというと、当時のいわゆるかぶき者(ド派手な格好や振る舞いが特徴の不良男子)を真似た、つまり男装がウリの芸能だった。御所の女院の前で興行していることからも、女性人気が高かったであろうことが想像でき、その意味では宝塚のトップスターのような存在だったといえるかもしれない。慶長12年(1607)には江戸に進出して大成功を収めている。
しかし興行は水物。技芸に優れる阿国のパフォーマンスは時代遅れとして人々の支持を急速に失っていった。代わりに人気となったのは遊女たちが演じる遊女歌舞伎。芸は素人でも容色に優れ、売春と直結した女性たちの見世物に観客の興味が移っていったのだ。
その後の阿国の動向を伝える資料はあまりに少ない。一説には故郷へ戻り剃髪して連歌をたしなみ、87歳の長寿で没したという。