ぷろふぃーる
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江戸っ娘16判定
ぷろふぃーる
生没年月日弘化3年(1846)閏5月10日~
明治10年(1877)9月2日

出身地京都

お墓増上寺(東京都港区)

きゃらプライドが高い(ただしツンデレ)

Q.御台さま、特技は?
A.御台とちゃいます。宮様と呼んでください。まあ、お歌(和歌)やろなあ~。

Q.嫌いな人っていますか?
A.慶喜はん! あの人、ほんま、けったいな人。

Q.お風呂は月に1、2回と聞きましたが。
A.お風呂場に行かへんだけ。おぬか袋で毎日、身体は洗うてますえー。

Q.ご自分の顔で特徴といえば?
A.おでこが広いとこ(怒)。
和宮
その人生
  京都御所東側、橋本実久邸で生まれる。父は仁考天皇、母は橋本実久の娘・経子。仁孝(にんこう)天皇は和宮が生まれる前に他界していたため、腹違いの兄・孝明天皇が即位していた。
  6歳のとき、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王と婚約。着々と嫁入り準備が進んでいく。しかし安政5年(1858)13歳のころから、公武合体を目指す思惑より、徳川将軍家への降嫁、つまり14代将軍徳川家茂(いえもち)への嫁入りが朝幕府間で画策されるようになる。同時進行で有栖川の宮家への入輿が内定するが、万延元年(1860)、幕府から正式に和宮降嫁が請願されると、孝明天皇は攘夷を条件にこれを受諾する。15歳の和宮は頑なに固辞していたが、国を憂う兄の心境を思い、この運命を受け入れた。このときに詠んだとされるのが

惜しまじな 君と民とのためならば 身は武蔵野の露と消ゆとも

  16歳、京都を離れ江戸へ。この道中に生理が始まる。
  17歳、徳川家茂と婚儀。プライドの高い和宮は江戸城大奥のしきたりに迎合することを嫌い、孤立していたが、同年齢の夫・家茂との仲は円満で、次第に周囲にも心を開くようになる。しかし慶応2年(1866)、心の拠りどころであった家茂が死亡。これを機に実家に帰るという向きもあったのだが、和宮は江戸城にとどまる。明治元年(1868)には、江戸城を官軍の攻撃から守るため、実家に懸命に働きかけ、無血開城に大きく貢献した。
  その後の和宮は一度京都に戻るが、再び東京に御殿を構え余生を送る。明治10年32歳の時、脚気に罹り、治療先の塔ノ沢で死去。遺骸は生前からのたっての希望で、夫・家茂の眠る増上寺徳川将軍家墓に葬られた。
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