ぷろふぃーる
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江戸っ娘16判定
ぷろふぃーる
生没年月日天和元年(1681)~
寛保元年(1741)4月10日

出身地三河(愛知県)?/大和郡山(奈良県)?/江戸?

お墓蓮華寺(長野県)

きゃらしっかり、ときどきミーハー

Q.大奥でのポジションは?
A.御年寄です。表の老中に匹敵します。

Q.好きなタイプは?
A.やせ形で色気のある人。

Q.じゃあ、好きな芸能人は?
A.歌舞伎役者の生島新五郎。

Q.特技は?
A.……密会

Q.生島さんとの密会が原因で拷問を受けたとか?
A.石抱き※と笞打(うちうつ:うちはムチに同じ)と交互に科せられます。痛かったけど、愛があれば耐えられるもんですよ。

※自白をとるための牢問で、三角柱にした木を数本並べた上に座らされ、膝の上に1枚12貫目(約45㎏)ほどの切石を載せられる。
絵島
その人生
  絵島は御家人白井平右衛門の妹とされているが、諸説あってはっきりしない。
  紀伊藩主徳川綱紀の正室で、5代将軍徳川綱吉の娘・鶴姫に仕えたのち、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の側室・月光院(当時はお喜代の方)に仕えるようになる。家宣没後、月光院の産んだ子ども、家継が7代将軍を襲職したため、将軍生母として月光院の勢力は肥大化。月光院の側近である絵島も、大奥の最高責任者・御年寄の一人として権勢をふるった。
  面白くなかったのは家宣の正室・天英院。家継の父親代わりとなって発言権を持った側用人・間部詮房(まなべあきふさ)の存在を良しとしない表の老中たちと結託して、一大派閥・天英院派を形成した。
  月光院派と天英院派、一触即発の雰囲気のなか、勃発したのが、絵島生島事件である。
  当時34歳の絵島は、月光院の代参として、正月12日に増上寺の家宣霊廟に出かけた。帰途に、木挽町(こびきちょう)の山村座へ寄り、芝居見物の後、贔屓の人気役者・生島新五郎(44歳)と遊興し、酒を飲んでハメを外して江戸城の門限に遅れてしまった。
  天英院派は待ってましたとばかり、この醜聞を月光院派の追い落としに利用する。北町奉行の取り調べは恐るべき速さで進み、絵島にも生島との密通の自白をとるため三日三晩不眠不休の牢問が加えられたが、ついに口を割らなかった。(絵島はどM……)。
  結果、監督不行き届きとして、絵島の兄・平右衛門などが死罪となり、絵島は信濃高遠藩へ、生島は三宅島に配流。山村座はお取り潰しとなり、連座(他人の犯罪に対して連帯責任を問われて罰せられること)した者は1500人におよんだ。こうして月光院派は粛正されたのである。
  配流先での絵島の生活に自由はなく、食事も一汁菜と粗末なもので、38歳からは魚類を一切取らなかった。61歳で病没。大奥で絶頂を極めたことがうそのような、質素な晩年だった。
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