ぷろふぃーる
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江戸っ娘16判定
ぷろふぃーる
生没年月日天保7年(1836)12月19日~
明治16年(1883)11月12日

出身地薩摩(鹿児島県)

お墓寛永寺(東京都台東区)

きゃら寡黙で肝が据わっている。ど几帳面

Q.旦那さんとの関係は?
A.良好ですとも。上は、実家(島津家)から届いた黒砂糖でカステラを作ってくれたりします。

Q.ペットがいるとか?
A.本当は狆(チン)が好きですが、上が嫌がるのでミチ姫とサト姫という猫を2匹。

Q.趣味は?
A.ミシン※と宮(和宮)を(いろんな意味で)可愛がること(^^ゞ

Q.勝海舟さんのことはどう思いますか?
A.徳川を思ってくれる大好きな人……い、いや、大切な人です。

Q.お酒が相当お強いようで。
A.なんでそいを知っとうの?晩酌せんと、眠れんご~っっ!!

※安政元年(1854)年、ペリーの二度目の来日時に家定に贈呈されたのが日本で初めてのミシン導入といわれている。
天璋院
その人生
  薩摩藩今泉領主・島津忠剛の子として鹿児島に生まれる。幼名於一(おかつ)。
  徳川家祥(後の13代将軍・家定)との縁組が画策され、18歳、嘉永6年(1853)に本家にあたる薩摩藩主・島津斉彬の養女となり(後に実子扱いになる)、江戸の薩摩藩下屋敷へ入った。このとき、篤子の諱(いみな)を授かったことから、篤姫と呼ばれるようになる。この間、将軍継嗣問題が表面化(家定は生殖能力が乏しく、世嗣誕生が期待できないため、14代将軍に誰がなるべきかで一橋慶喜を推す一橋派と、紀州徳川家慶福を推す南紀派が激しく対立)。実家である島津家が一橋派であったことから、篤姫には御台所として家定の口から、一橋慶喜を世嗣に指名させるようにという密命を帯びることとなった。
  21歳、安政3年(1856)、一度近衛忠熈(ただひろ)の養女となり、諱を敬子(すみこ)と改め(君号は篤君)、徳川家定に嫁(か)す。
  嫁いでみると家定は話で聞いていたより尋常で、篤姫は一橋派の工作員としての自分と、将軍の妻としての自分の間で揺れた。結局思うような成果を上げることはかなわず、南紀派の井伊直弼が大老に就任することで、将軍継嗣は慶福(よしとみ:後の14代将軍・家茂)に決まる。安政5年(1858)には家定が急死してしまう。
  23歳の篤姫は落飾(らくしょく)して天璋院と号し、13歳の若き将軍・家茂を大奥から支える。文久2年(1862)家茂の元に皇女和宮が嫁入りすると、しばらくは嫁姑の確執が続くが、家茂が病没すると結束して主亡き江戸城を死守。明治元年(1868)、江戸城無血開城に尽力した。
  維新後は徳川宗家を相続した亀之助の養育に専念。もろもろのことは旧幕臣である勝海舟に相談をし、実家からの援助は受けず徳川家の賄だけで過ごした。明治16年、中風(脳卒中の発作の後遺症として主に半身不随となる状態)により48歳で病没。手文庫にはわずか3円しか残っていなかったという。
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