ぷろふぃーる
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おすすめ作品
江戸っ娘16判定
ぷろふぃーる
生没年月日安永7年(1778)~?

出身地浅草

お墓

きゃら強気(ツンデレ?)

Q.年齢のわりに大人っぽいですね。
A.何? ふけてるってこと!

Q.スイマセン! 全然そんなこと、思ってません! 特技は何ですか?
A.店の前にできた行列をチャキチャキさばくこと。見りゃわかるでしょっ!!

Q.ス、スイマセン! 自慢したいことは何ですか?
A.歌麿さんの錦絵にたびたび出てること。※あのオッサン、私のこと好きなのよ。ワハハ。

Q.日々のファッションのポイントは?
A.見てわからない?! 絣!! めっちゃ似合ってるでしょっ!!

Q.ス、ス、スイマセン!! 髪型、素敵ですね。
A.ウフそうでしょっ! 水茶屋で接客しながらこの髪型維持するのって結構大変なんだからねっ!! あんたたちの喜ぶ顔が見たいわけじゃないんだからねっ!!

※喜多川歌麿作「当時三美人」に絵が描かれた。当時三美人とは寛政三美人のこと。三美人はおきたほか、髙島屋おひさ、吉原芸者の富本豊雛。
難波屋おきた
その人生
  安永7年(1778)、浅草寺二天門脇の水茶屋、難波屋に生まれる。幼いころから親の接客を見て育つ。
  30年ほど前の明和年間に、水茶屋から笠森お仙のようなスターが出てからは、各店が看板代わりに美人を店先に置いて、集客に利用するようになっていた。ちなみに彼女たちはコンパニオンのような存在で、直接、接客はしない。文字通りの看板娘である。浅草寺には水茶屋が多く、看板娘も多すぎて飽和状態になっていた。
  おきたは、実家の家業のためにひと肌脱ぎ、年ごろになると自ら看板娘となって店先に立つようになった。もともとキリっとした美貌の持ち主であったので、当時最先端の流行であった絣の着物を身にまとい、往来の人々に呼び込みの声をかけると、瞬く間に大評判となる。
  寛政5年(1793)、16歳のとき、当時の超人気浮世絵師・喜多川歌麿の絵のモデルになると、その名は江戸中に知れ渡り、見物人が殺到。お金を払って飲食する客には非常に愛想がよく、お世辞もうまかったが、見物だけの客が多すぎて商売にさわるときは水を撒いて追い払った。かなり勝気な性格だったようである。
  歌麿の絵には、おきたがお茶を運んでいるカットがとても多いので、彼女は普通の看板娘とは違い、自ら接客を行なっていたようである。また、鏡で化粧をチェックしている絵や、オフのときにも髪が崩れないように紐で鬢を固定している絵があることから、相当美意識が高く、ファッションには気を遣っていたようだ。
  娘盛りを過ぎると一時店に出なくなるが、どうやら好きになった男と一緒になったらしい。その後、再び店に戻り、年を取るまで働きながら幸せな一生を送った。
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