 宝暦元年(1751)~ 文政10年(1827)1月29日
 草加(埼玉県)
 正見寺(東京都中野区)
 冷静沈着
 お仙さんといえば明和の三美人の一角ですね。
 ありがとうございます。お藤さんとおよしさんと…。※1
 特徴は?
 この低い声ですかね。
 将来の夢は?
 お嫁さん。だから本当は早く仕事、辞めたいんです。
 今日のファッションのポイントは?
 木綿の着物でシンプルにまとめました。
 特技は?
 お客さんを"さかす"こと。※2
※1 明和の三美人はお仙のほか、浅草寺内の柳屋お藤,蔦屋お芳。
※2 お客さんを上手くあしらうことを"さかす"といった。ある日茶屋に田舎侍が来てお仙は絡まれた。「お客様と同じお国訛りの御家老様も、うちの店を贔屓にしていただいてますよ(つまりあんまりしつこいとチクりますよ)」と言って軽くいなしたという。
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草加の名主の娘として生まれるが、後に谷中感応寺福泉院・笠森稲荷の水茶屋鎰屋(かぎや)五兵衛の養女となり(父親の借金返済の方に売られたともいう説も)、13歳のころから店に出る。17、18歳のころ、人気絵師、鈴木春信の浮世絵のモデルとなって一躍超人気アイドルに。
それまで浮世絵のモデルといえば、吉原の花魁や歌舞伎役者など、けばけばしく着飾った玄人のスターが主だった。これに対して春信がモデルに抜擢したお仙は、生粋の素人娘。化粧っ気がなく、質素な木綿の着物をさらりとまとい、かいがいしく客の間を行き来している。
当時の人々には素朴さが逆に新鮮に映ったのだろう。また、吉原や歌舞伎のように大金を使わなくても、お茶を一杯頼めば気軽に本人に会えるのも魅力だった。春信の浮世絵とともに、"笠森お仙"の名はたちまち有名になり、笠森稲荷には江戸中から見物人が殺到した。
しかし明和7年(1770)、お仙、20歳のとき。人気絶頂のなか、彼女は忽然と姿を消す。お仙目当ての見物人たちは、老いぼれた五兵衛がいるばかりでがっかり。「とんだ茶釜が薬缶に化けた」という言葉が流行った。
超人気アイドルの突然の失踪劇に世間は騒然となり、さまざまな憶測が飛び交ったが、じつはお仙は、御庭番・倉地政之助と極秘結婚していたのだ。子宝にも恵まれ、77歳で病没した。
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